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小倉屋山本の歩みと「のれん」 年表 えびすめ誕生秘話
 
えびすめ誕生秘話
写真:えびすめ塩ふき昆布の元祖であり、その頂点と賞される『えびすめ』
皆様に愛されてきたこの名品が誕生したのは、昭和24年の秋のことでした。

戦後、店を復興して1年目のこと。三代目店主山本利助は、
当時の製造部長に「世間をあっといわせる製品を作れ!」と命を下しました。
「社長の命に何としてでも応えたい」
製造部長は、強い信念を持ち、多くの人に好まれるような、それでいて今までにないものを作りだそうと日夜研究を重ねました。しかし、なかなか思うようなものが作れません。苦しい日々が続き、ようやく乾燥塩昆布に的を絞りますが、今度はその製法に頭を悩ませます。素材と技が最も良いハーモニーを奏でられる条件を探って、夫婦二人、七輪の網の上で小さく切った昆布を一枚一枚、丁寧にあぶったこともあったといいます。
写真:えびすめそして、とうとう独特の風味と舌触りを持つ「えびすめ」が出来上がりました。試行錯誤の末に、ようやくうま味を出すための製法を開発したのです。
「うまい!これはいける。ようやった。明日から売ろ。」
完成品を試食した山本利助は、ひと口で勝算をつかんだといいます。価格は、当時の高級牛肉100グラムとほぼ同じ350円と決められました。
「うまい」という当時の確固たる自信を窺い知ることができます。ところが、予想に反して「えびすめ」は当初なかなか売れませんでした。
「なんや、この昆布。カビが浮いてるやないか」
「小倉屋さんともあろうものが、こんな古い塩昆布を売りまんのか。塩が吹き出てるでぇ」
写真:えびすめ新聞広告売り出し早々、こんな苦情が後をたたなかったようです。浮き出た白い粉がカビと間違えられたのです。そのうえ、昔から大阪では、家庭で塩昆布を炊いており、その家庭なりの味が代々伝わっていました。昆布に対するこだわりも個人個人でそれぞれに持っているだけに、新しい製品が受け入れられることはなかなか難しかったのです。
しかし、昆布店で炊かれる塩昆布は、当然ながら家庭で炊くものとは別格です。うまい加工昆布を作るためには、特殊な技術を必要とし、原料となる昆布の質にも大きな違いがあります。「えびすめ」は、昆布の最高級品と言われる真昆布の肉厚な部分だけを使用しており、その上質な昆布の味を芸術品といわれるまでに高めたものでした。そんな「えびすめ」だからこそ、山本利助は決してあきらめず「いつかわかってくれる時がくる」と固く信じて、「これはカビやおまへん。新しい昆布だす」とひとつひとつ誠意を持って対応し、説明を繰り返したといいます。
味は食べてみればわかること。「えびすめ」に対する誤解はすぐに解けて、しだいに愛好者が増えていきました。そして、昭和29年2月「農林大臣賞」を受賞。その品質の優秀さが確かに認められたのです。その後、風味にも改良が加えられ、「えびすめ」はどんどん売れるようになりました。
写真:えびすめ通信「またか、またか。」
注文が来ると、社員たちはうれしい悲鳴を上げて、せっせと「えびすめ」を作りました。さらに、昭和32年、三代目山本利助の実妹である山崎豊子の処女作で、昆布屋が舞台になった『暖簾』が刊行され、映画化、舞台化、そしてテレビにも登場すると、売り上げは急上昇。
「もうめちゃくちゃ。けた違いに売れたわ」
「寝る間おまへんねん」と当時を知る社員たちは口を揃えます。中元、歳暮期には一日1トンも売れた「えびすめ」は当時のプライスリーダーにもなりました。こうして、『暖簾』以後、小倉屋山本といえば「えびすめ」と言われるほどになったのです。




「小倉屋のえびすめ食めば
 おのづから君のなさけに似たる味する」
(吉井勇)

吉井勇氏は近代短歌を代表する歌人の一人。
小倉屋山本を詠んだものとして、
他にも「浪華なる新町はしの小倉屋の昆布を
おくらむよきひともかな」という歌も
残されています。
写真:吉田勇の歌
 


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